4月が終わると同時に無職になりそうだ。
今まで、大学名やら企業名で肩書きを持っていた男が、何も肩書きがない男になる。
これをニートと呼ぶのだろうか。
いや、やばいって。
じわじわとこのヤバさが迫ってきている。
実家にいる限り、飢えることはないし、数年は生きることは出来るだろう。
わかってはいる。
今日、母親が言った。
「あなたが家にいるって嬉しい」
僕は社会人になって以来、6年ほど一人暮らしをしていた。
東京の実家がありながら、東京で。複雑な気持ちになりながら、母の意図を汲み取る。
きっと、言葉通りの意味と、僕の「生」に対する肯定があるのだろう。つまり、僕が生きる意味を一つ、あえて言葉にしたのだ。
福岡で「死にたい、会社をやめたい」と訴えてから、約一週間が経った。会社の退職手続きの担当者から連絡がある。事務的なものだ。
自分で選んだ道だ。
内省する時、過去の自分と現在の自分、そして未来の自分がいる。
過去の自分は、既に消え去っていて、辛かったことや人生の輝かしい瞬間を光のプリズムのように投影させる。
現在の自分は、呼吸をしながら自分がまだ生きていること、会えない子供のこと、面白かったバラエティ番組のこと、家族とのとりとめのない会話、ペットの散歩、、、出来るだけ平穏な日々を送ることに集中している。
未来の自分は、時間を超えて僕を励まそうとする。
「大丈夫。なんとかなる。状況は変わっていく。いつか、過去のことになる。今はとにかく生きろ。それだけでも、十分だ。未来のことは、俺に任せろ」
なんとも頼もしい。悲観的になりそうな時、僕はこうやってメンタルコントロールをする。
「今日、生きるだけでいいんだ。まずはそれからだ」
これは、本当にメンタルが不調の時に身につけた気の持ち方だ。
仕事ができない、朝起きれない、夜眠れない。こんな状況の時でも、ひとまずは生きてるじゃないか。それでよしとしようじゃないか。
こうして、今日を生き延びる。幸せなことに、まだ家族がいる。可愛い犬もいる。
ないものをあげればキリがない。でも、あるものをいくつか見つけられたら。
それだけで、今日を幸せに生きることができる。今日を幸せに生きることができたなら、仮に今日、命が果てたとしても、いいじゃないか。
僕は生き続ける。もちろん。変なことは考えていない。それだけは自信を持って言える。
未来の自分が、「大丈夫だよ、俺だってなんとかなったんだから」
そんなことを、誰かに言える日がくることを夢見て。
今日も生きてやろうじゃないか。挫折しようと、もがこうと、嫉妬に駆られようと、痛みを抱えていようと。今日も、明日も、明後日も。わずかな変化をつけながら、人生のルートを見つけていくんだ。
誰かが見てくれていたら、もし共感してくれたら、一緒に、頑張ろう、いや、頑張らないで、生き抜こうよ。力を抜いてさ。
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