発達障害やASDの辛さ~宣告されてから受け入れるまでの葛藤~

発達障害?それがどうした?

最終的にこれを言いたくて、書いています。

ここ数日、自分がASD(自閉症スペクトラム)という発達障害者であることを受け入れるという心の闘いを行っていました。

それは、自分が発達障害者であること、または自閉症気質が高いことを一度しっかりと受け入れないと、今後の人生において同じ穴に落ち、繰り返すという一種の恐怖感から来たものでもあります。

初めの1日、二日は、非常に辛いものでした。

「これからのあなたは一般的な世間が唱える-幸せ-を得る人生は送れません」と死刑宣告を受けた気分との闘いでした。

発達障害という名前の響きが、「自分が並みの人間ではないこと」を意味すると私に訴えてきて、受け入れがたい事実だと心の中で悶絶する日々でした。

母親にも、伝えました。「私をまともな人間に変えようとするのはやめてください。私は発達障害者です。受け入れてください。まともな人間にしようという思いは、例え愛情だとしても辛いです」と伝えることにしました。

三日目になりますが、この「受け入れの闘い」を制することができるようになると、ふと気楽になれる瞬間が訪れるようになりました。

それは、「発達障害者」だから自分の短所(私の場合は「人に合わせられない」、「自閉的になることがある」などのコミュニケーション上の欠点)に対して開き直るという感覚ではありません。

「だからどうした。俺は俺じゃないか」という思いです。

心が自由になっていく感覚、と表現すればいいのでしょうか。

社会の「よい」とされていること、言い換えるとするならば、「人に対して優しくすること」「しっかりと働いて社会に貢献すること」「人としてちゃんとすること」などの無言の空気感に対して「それって、全ての人が必ず守るべきこと?」「心が壊れてまで?」と問いかける作業でもありました。

頭がおかしくなったのかと何度も自分を疑いましたが、そもそも「おかしさ」とはなんなのかということをゼロから考えてきました。

結果、「おかしさ」とは「社会や世間という見えない空気感の中で、漠然と作り上げられた幻想のようなもの」と私は一度定義することになりました。

「おかしさ」の反対は「正しさ」もしくは「正常さ」「普通」といった言葉になると思っています。

果たして、今の日本社会の「正しさ」「正常さ」「普通」はどこにあるのか?

誰が「正しさ」をまぎれもない真理として示すことができるのか?

答えは、「誰もできない」でした。

誰もできないということは、「私にも何が正しいか、または何がおかしいかわからない」ということです。

そうして一つずつ考えていくと、「世の中に正常さなど存在しない」と私は考えるようになりました。

現在を切り取って、「これが正しい」「これは異常」と見なされたものが、果たして未来でも同じようにカテゴライズされるかはその時、その時代にならないと判明しません。

それでも、唯一の真実は残りました。削りに削り、疑いきれるものは全て疑い(自分も含めて)、それでも否定できなかったのは「自分が自分であること」それだけだったのです。

拙い思考を晒したかもしれません。

なんの意味もない理論のこねくりまわしを行ってきました。

ただ、私にはそれが必要だった。

いわゆる常識やよいとされてきたこと(もしかしたら、もっと突き詰めて辿っていくと、その多くは学校教育にあったのかもしれません)を疑い、それでも、「私は私だった」そんなシンプルな答えが私の軸の一部になっています。

冒頭の「発達障害?それがどうした」は、こうした考えから導きだされた、たどり着いた一種の「何か」に対する開き直り。「何か」とは、「私がこれから生きていく人生」です。

冒頭の「発達障害」という言葉を「片手がない」「右目が見えない」「痴呆症」「過呼吸になる病気」さらには「ニート」や「LGBT」など、一般的ではないことと置き換えてみても同じではないでしょうか。(一例として、不謹慎や傷つける言葉と捉えた方がいらっしゃったら、そこは私の言葉選びのセンスのなさとしてお詫び致します)

発達障害、それがどうした。

またこの自問自答をしていくと、また考えは変わっていく可能性はあります。

少しこの文章における表現の仕方や言葉選びについて考えすぎたので、この辺で筆を落とします。

自分の人生を前進させる「何か」を掴んだ感覚を言語化したく、残しておきたいと思います。

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